八戸のメンタルプロコーチつむちゃんの龍馬塾

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八戸ドリプラ「青森夢維新 RYOMA塾」

つむちゃんが描くドリームプラン

自由奔放だった少年時代

「おたくの息子さんは問題児です・・・」私は少年時代「問題児」と呼ばれていた。 席替えを拒否して、好きな女の子を独占、おかげで他の女子から大バッシングを受ける。馬の絵を描く授業で、描くのが面倒になり文字で「う、ま」と描いて提出、先生にしこたま怒られる。野球部の部員が多すぎて練習させてもらえず不満爆発!同級生全員を引き連れて野球部をやめ、新チームを結成するが・・・。本物の監督に注意され、あえなくチームは解散。

やることなすこと自由奔放!悪気なんて全然なかった。
だから、いつも思っていた「誰もオレを解ってくれない・・・」

自由奔放だった少年時代

私を変えてくれた先生がいる。5年生の担任だった、おばあちゃん先生。
2学期、おばあちゃん先生がガンになった。先生は学校をやめることになった。みんなでお別れ会をやった。そのとき、先生に言われた。「マサヒロには、凄い才能があるよ。その力を良いことに使えばいい」照れくさかった、でも、ちょっと嬉しかった。

息子ができて

そんな私も結婚して子供ができた。宝物みたいな男の子。小学生になった息子は野球を始めた。「お父さん、野球を教えて・・・」その日から私は鬼コーチになった。
毎朝6時から練習。キャッチボール、素振り。週末はバッティングセンター通い。息子はどんどん上達して、チームの4番バッターになった。私の期待は大きく膨らんだ。自分が果たせなかった夢を彼に託した。一番強いリトルリーグに入れた。上手な子が集まるエリートチーム。

厳しい指導、怒鳴られ、罵られ、チームメートはポジションを争うライバル。ある日息子が言った。「野球がつまらない。もう辞めたい・・・」私は、彼が逃げていると思った。だから、絶対辞めさせなかった。結局、息子はレギュラーになれなかった。どれだけ頑張っても試合に出ない。初めて、控え選手の苦しさを知った。試合に出ない寂しさを味わった。高校生になると、息子は野球を辞めた。野球という楽しみを奪ったのは私だ。

サラリーマン時代

サラリーマン時代の私は、髪を七三に分けて、スーツにネクタイ、まるで企業戦士。全然、自分らしくない。でも仕事だから必死にやった。5年目でトップセールスマン。10年目には営業部長。売上快調。業者は思い通り。怖いものなし。入社15年目、会社を辞めた。

「だったら、自分ひとりで、好きなようにやればいい」
ノープランの開業、生活を凌ぐだけの毎日。もっと稼ぎたい、もっと豊かになりたい、オレはこんなもんじゃない、イライラばかりが募っていく・・・。

そんなある日、リーマンショック。売上はガタ落ち。お金が足りない。どうしよう・・・こんなはずじゃなかった・・・業者さんに頭を下げた。「あんたは信用できない」屈辱的な言葉。約束を守れない自分が悪い。情けない。悔しい・・・。

笑売繁盛会議

私を支えてくれたのが仲間たちだった。月に一度、みんなと一緒にやる「笑売繁盛会議」。飲んで、笑って、語り合って、時には涙する、オレ達の場所。最初は二人。二人が四人。気がついたら30人になった仲間たち。先輩も後輩も、経営者もサラリーマンも関係ない。入会資格は、アホになれる奴。アホな奴なら年齢性別問わず大歓迎!優秀なエリートは一人もいない、荒削りでデコボコな劣等生ばかりの雑草軍団。

彼らと一緒なら、喜びは2倍になり、悲しみは半分になる。笑売繁盛会議は同じ志で結ばれた、平成の海援隊。私は仲間たちと一緒にリョウマ塾を立ち上げる。リョウマ塾は、問題児や劣等生を輝かせる場所。私の役目は、彼らに一歩踏み出す勇気を与える、人生の2軍コーチ。

★未来のシーン

7回裏、ツーアウト、ランナーなし。得点は7対0。あと一つのアウトでコールドゲーム。私はスタンドで戦況を見つめていた。このチームのメンタルコーチを務めて3ヶ月。やり残したことがあるだろうか・・・後悔が脳裏をよぎる。フォアボールでランナーが出た、もはや逆転は難しい。

ネクストバッターズサークルに背番号7が入った。背番号は一桁だけど、控えの3年生、中沢ダイキだ。ダイキはちょっと気になる選手だった。初めて、このチームのコーチングをしたときほとんどの選手がメンタルトレーニングに関心を示さなかった。

だけど、ダイキだけは違った。「この子は、何かを求めている・・・」ダイキは下級生にポジションを奪われ、チーム内で居場所をなくしていた。そんな彼が、メンタルトレーニングに活路を見いだした。トレーニング後、ダイキの態度が変わった。一心不乱に練習に取り組むようになった。「ダイキを使ってやりたい・・・」

重なる思い

ツーアウトランナー1塁。敗色濃厚のラストイニング。ダイキの姿に、30年前の自分が重なって見えた。劣等生で問題児だった自分がそこに見えた。デッドボール。7回裏2アウトから二人目のランナーが出た。神様からの贈り物だろうか。ダイキに打席が回ってきた。「ピンチヒッター中沢くん」背番号7の控え選手、中沢ダイキが打席に向かった。

「ダイキ〜!楽しんでこい〜!!」ダイキが振り返って、笑顔を見せた。1球目、2球目、立て続けにストライク。この1打席のために、どれだけスイングをしたのだろう。一度は諦めかけた野球に、もう一度挑戦したダイキ。3球目はバックネットへのファール。試合に出られなくて、ヤル気をなくしたダイキと話したことがある。「ダイキ、勝つってことは、レギュラー選手と控え選手の共同作業なんだ。控え選手にも役割がある。控え選手こそ、チームを変える力があるんだ。」4球目、5球目、ファールで粘った。「絶対打ってやる」、スタンドまでダイキの気迫が伝わってきた。6球目は低めに落ちる変化球。ワンバウンドしたボールにバットが空を切った。

三振・・・。ダイキが天を仰ぐ。ゲームセット。ありふれた結末。ダイキの夏、たった1打席の夏があっけなく終わった。球場の外で、ダイキに声をかけた。「ダイキ、最後の打席、良かったな。とてもいい打席だった。お前がやってきたことは、誇りに思っていい。大切なのは何をやったかだ。結果じゃないんだよ・・・」ダイキの瞳から大粒の涙がこぼれた。

あのときの少年は・・・

2020年、リョウマ塾に一人の青年が訪ねてきた。逞しく成長した、中沢ダイキだった。「つむちゃんコーチ、お久しぶりです!!」ダイキはリョウマ塾で学んだ後、全国行脚の旅に出ていた。 「元気そうじゃないか、ダイキ」ダイキの夢は、地域を元気にする居酒屋を開業すること。たくさんの若者がイキイキ働く、そんな居酒屋にしたい・・・。

初めて、ダイキの夢を聞いたとき、自分のことのように嬉しかった。「旅で、一番学んだことは何だい?」ダイキの笑顔が、引き締まった表情に変わった。「人の価値は肩書きや学歴とは関係ないってことです。家柄も関係ないし、学校の成績なんて問題じゃない!人の価値は、その人が何を目指し、どんな行動をしているかで決まります」私はダイキと握手をした。「ダイキおめでとう。もうリョウマ塾は卒業だな」

最後に

もし、坂本龍馬が生きていたら、どんな学校を作るだろうか?
「リョウマ塾」は、そんな思いから生まれた。勉強が苦手、自信がない、お金がない、才能がない、レギュラーになれない、何をしたらいいかわからない、そんな劣等生や問題児たちに伝えたい。

「できる!絶対できる!だからあきらめるな!!お前はお前らしくやればいい!!」大丈夫!仲間がいる。私たちと一緒に一歩前へ進もう。

セミナー動画

vol.1 反省会はやらない?!

vol.2 結果じゃない!チャレンジに拍手!

vol.3 本当に選手を信頼するとは?

vol.4 オリジナルレシピって?

vol. 5 完璧なチームはない!

vol. 6 全員野球の本当の意味は?

vol.7 聖愛True Story

聖愛高校野球部、日本一の朝礼

今、全国で何かが起こり始めている

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